道端で声を掛けられるのと同じように
知らない人から道端で声を掛けられたら、私に関心があるとは思わない。相手がここがどこか分からなくて声を掛けたのなら、私はここがどこか分かっていて、それを教えてくれることを期待されているんだろう。
ようは何かメリットを与えてくれるとか、目の前に問題があって、それを解決してくれるなら誰でも良いし、誰でも良いからたまたま近くにいた人に声を掛けたんだろうなという想像くらいはつく。
しかし、一度でも会ったことがあるような人に、どんな理由にせよ声を掛けられた時はどうか?どうも私は、私に少しくらいは関心があって声を掛けられた、と錯覚してしまうらしい。
その場合も、何かメリットを与えてくれるとか、目の前に問題があって、それを解決してくれるなら誰でも良いし、誰でも良いからたまたま知っていた人に声を掛けていることは十分にあり得て、でもそれに私は気づくことが出来ないんだなあ…
毎日外で人と顔をあわせるような生活をしていないので、どうも人間関係のイベントを高く見積もってしまうところが自分にはあるみたい。相手に必要なことを必要なだけ返せばいいことなのに、相手は私に少しくらいの関心があると勘違いしてしまうから、関心がある前提でふるまおうとしてしまう。
少なくとも、私はパーソナリティ的なところに関心がないと声を掛けようという気分にならない1ので、ドライというかインスタントに人に声を掛けられる人は、私にとって未知の種族だなと思った。
何が言いたいかというと、そのくだらない勘違いによって生じる、無駄な精神的エネルギーの消費をやめたい。2